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加古川城(加古川評定)と三木城(三木の干殺し)を歩く

連休後半で自由な時間があるのは今日(4/3)だけなので、「 三木の干殺し 」で有名な 三木城 に初めて行って来ました。

加古川評定 」までの流れ

小寺氏の家老であった 黒田官兵衛 の画策により、播磨の諸将が 織田信長 に付く情勢となる中で、羽柴秀吉 は、1577(天正5)年、毛利方の上月城を落城させます。

秀吉は、戦勝報告のため一旦帰国。

翌1578(天正6)年、本格的に毛利攻めを開始するにあたり播磨の地へ再びやってきます。

余談ですが、奪い取った上月城は、尼子勝久山中鹿之助 に任せています。

 

三木合戦のきっかけ「 加古川評定 」

秀吉が、毛利氏への本格的な侵攻を開始するために、播磨の諸将を集めて軍議を開いたのが、加古川市にある「 加古川 」です。

そのため「 加古川評定 」と呼ばれます。

加古川は、江戸時代初めに廃城となったそうで、現在は真言宗の「 称名寺 」というお寺になっています。

行ったとき、法要をされている家族がいらして、写真を撮るのがはばかられましたので、加古川市観光協会の写真を拝借します。

この加古川城の城主は、糟屋武則 でした。

当時はまだ若く、秀吉の小姓となり、後、賤ヶ岳の七本槍 の一人として活躍することになる人物です。別所氏の家来だったのに。

この「 加古川評定 」で別所氏が信長から離反することになった理由は、

・赤松氏の流れをくむ別所氏が、足軽あがりの秀吉の旗下につくのを嫌ったから

・秀吉の上月城攻めのむごたらしさを嫌悪したから

・長治の叔父2人の権力争いが影響したから

・逆に秀吉が、別所氏の長い軍略の話にうんざりしたから

など、いろいろな説がありますが、史実はどうなんでしょうね?

 

三木合戦 ~ 三木の干殺し ~

当時の別所氏の当主は、別所長治 でした。

いつもながらの「信長の野望」からの拝借です。

毛利氏を頼みとして織田氏と戦うことになってしまったのは史実です。

ここで位置関係を見ておきます。

①が 三木城 です。

②が秀吉の本陣である 平井山城 。 ③が 加古川

秀吉がメインの戦さではありますが、一時的には織田軍のオールキャスト状態だったとの資料もあるようです。

信長の弟の信包、信長の子どもの信忠・信雄・信孝兄弟、その上に細川藤孝滝川一益明智光秀丹羽長秀佐久間信盛ら。

重臣でいないのは、北陸攻めの柴田勝家ぐらい。

 

そして別所方ですが、主だった家臣が守る城は、④が神吉頼定の 神吉城、⑤が衣笠範景の 衣笠城、⑥が淡河定範の 淡河城 です。

信長の野望」に出てくる別所氏家臣は、あと久米五郎・中村忠滋・石野氏満ぐらいかな。

別所氏は秀吉軍を跳ね返せると思ったんでしょうね。

 

下の絵図は、別所氏の菩提寺である法界寺に伝わる「三木合戦軍図」に描かれている 神吉城の戦い の様子だそうです。

二の丸に「三木市立みき歴史資料館」があって、複製が展示されており、写真撮影OKでした。

こちらは、別所長治自刃の図です。

資料館を出て、本丸の方へ歩いてみます。

本丸跡の石碑の後ろが小高くなっていますが、「伝天守台」となっていました。

頂上にある石碑には、別所長治の辞世の句が刻まれています。

「 今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我が身とおもへば

別所長治の石像と三木の街並みです。

 

秀吉の行った三木合戦は、天正6年3月から天正8年1月にかけて行われた「 兵糧攻め 」でした。

三木の干殺し(ひごろし or ほしごろし)と呼ばれるほどの凄惨なものだったそうです。

備中高松城を攻めた「高松の水攻め」と、鳥取城の「鳥取城の渇え(かつえ)殺し」をあわせて、秀吉の三大城攻めというそうですね。

尚、兵糧攻めの最中に、秀吉の軍師・竹中半兵衛がこの地で亡くなっています。

 

三木城跡では、歴史好きの方なんでしょうね、5組の方と一緒でした。

明日からは孫の守です。うれしいやら、しんどいやら。