前のブログ記事で紹介した岡山市の オリエント美術館 に行って来ました。
- 写真撮影がダメだったので、展示品は紹介できません。
- 本展は、奈良の 天理大学 の所蔵品で構成されている。
- 本展は、昨夏、東京池袋の 古代オリエント博物館 で開催されていた!
- マルコポーロは、帰国後、ジェノヴァとの戦いで捕虜となり、投獄中に口述筆記してもらったものが「東方見聞録」とのこと。へぇ~。
ついでに 岡山城 へ
下の写真のように、岡山城 の外壁は黒塗りの下見板で覆われているので、別名「 烏城(うじょう)」と呼ばれています。
現在の岡山城天守閣は、昭和41(1966)年に鉄筋コンクリート・エレベータ付きで再建されたものです。
それは知っていたのですが、城内の展示監修があの 磯田道史 さんだったとは知りませんでした。道理で、展示解説に読みふけってしまうのも納得です。
宇喜多直家は、斎藤道三・松永久秀とともに戦国三大梟雄(きゅうゆう:残忍で悪者)とされる人物です。
展示解説では能力高い人物と評価されていましたよ!
その後、小早川秀秋 を挟んで池田家の居城となります。
この 池田家 について簡単に下表にまとめてみました。
池田恒興とその長男・元助は、小牧・長久手の戦いで討ち死にします。
恒興の次男・輝政と三男・長吉は、関ヶ原の戦いでは東軍について、関連する諸戦で武功を挙げます。
そして戦後、輝政は播磨一国52万石、長吉も鳥取城を与えられます。
その上、輝政の次男・忠継は、わずか5才で岡山城主!
これは、武功を挙げた上に、輝政が、徳川家康の二女・督姫を妻としたことが大きかったのかな。
輝政の次男・忠継と三男・忠雄は督姫の子。おじいちゃんは家康ですからね。
更に、輝政は、長男の利隆には、榊原康政の娘・鶴子を秀忠の養女とした上で妻に迎えているのです。
輝政の孫・光政は、この鶴子の子ですから、養女とはいえ2大将軍秀忠がおじいちゃん。
更に更に、この光政には、本多忠刻(祖父は本多忠勝)の娘を妻として迎えています。
将軍家に四天王家、徳川との関係は盤石です。
で、この光政なんですが。
姫路藩初代・輝政と2代・利隆のあと、3代目である光政は幼少であったため、大藩は重荷と判断されて、鳥取藩へ国替えとなります。
岡山城は、若くして亡くなった忠継のあと、その弟である忠雄が2代藩主となっていました。この忠雄が亡くなったとき、その子・光仲がこれまた幼少であったため、成人していた鳥取の光政との国替えとなりました。従兄弟同士の国替えです。
輝政の長男の家系である光政は、姫路→鳥取→岡山と動きます。
弟たち忠継・忠雄の家系は、岡山→鳥取と動きます。
この池田家、元々は外様であったのに、輝政以降の本家・分家で7家の大名となっています。いやはや、すごいものです。
オリエント美術館の特別展のことで書き出したのに、ほとんど池田家の話になってしまいました。
勢いで書いてしまいましたが、こういう分野は研究を積み重ねてこられて非常に詳しい方が大勢いらっしゃるのに、恥ずかしい限りです。間違っていましたら、ぜひご教示ください。