3連休の土曜日、久し振りに京都を歩いてきました。
今回は、珍しく京都の繁華街、三条・四条界隈 です。
まずは 三条大橋 と 三条河原 へ
地図のNo.①が「 三条大橋 」です。下流側(南手)から撮影。
室町時代に初めて橋が架けられたそうですが、東海道五十三次 の西の起点として有名ですね。
それで、三条大橋の西詰めに、十返舎一九の「 東海道中膝栗毛 」の主人公、弥次さん喜多さん の像(No.②)があります。平成の初め頃に近隣の商店街さんが建てられたそうです。
また、三条大橋の下流側欄干の擬宝珠に 刀傷 があって、それは「 池田屋事件 」の時の物だとされています。
「 池田屋事件 」は、幕末、新撰組が長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した事件。その事件現場である池田屋は、すぐ近くの三条木屋町にあったそうです。
三条河原 は 処刑場
ここ 三条河原 と下流の 六条河原 は、処刑や処刑後のさらし首が行われた場所 です。
関ヶ原の戦いに敗れた 石田三成 は、六条河原で斬首刑となり、三条河原でさらし首にされたそうです。
そして、最も痛ましいのが 豊臣秀次とその妻子の処刑 です。
豊臣秀次とその妻子のお墓 瑞泉寺 No.③
豊臣秀次 は、秀吉のお姉さんの子ですから、秀吉の甥です。それで、秀次は、世継ぎがいなかった秀吉の養子となり、関白の職も譲られていました。
しかし、秀吉に 秀頼 が生まれたことから、人生の歯車が狂い始めます。最後は、謀反の罪を着せられ高野山で切腹させられてしまいました。
秀吉は、これに留まらず、三条河原に秀次の首をさらし、その前で、妻子侍女など39名を処刑したのです。
この 地蔵菩薩像 は、処刑の際、四条大雲院の僧・貞安上人が刑場に運び込み妻子らに引導を授け続けたと伝わる尊像です。
現在では、極楽浄土に導いてくださる「 引導地蔵尊 」として、京都市民に崇敬されているそうです。
また、左右の人形は、松下幸之助さんが奉納した妻子や殉死した家臣を模した人形だそうです。
これが、豊臣秀次のお墓です。
処刑の際、遺体は縁者に引き渡されず、大穴に投げ入れられて埋められ、その塚の上に、秀次の首を納めた石びつを置いたと記録に残っているそうです。
その石びつが中央の墓石とのこと。
その後、秀次一族の塚は、鴨川の氾濫で跡形もなく流されてしまったそうですが、高瀬川の工事中に 角倉了以 がその石びつを偶然に見つけて供養したのが、この 瑞泉寺 の始まりだそうです。
祇園の観光名所 巽橋 へ No.④
白川にかかる小さな橋「 巽橋 」一帯は、京都市の伝統的建造物群保存地区に指定されています。
桜と石畳、そして柳が織りなす風景がなんとも京都らしく、祇園の中でもとくに絵になる場所として有名です。桜は花の時期でもなく紅葉にも早すぎるのですが。
やっぱり、観光客、いっぱいです。
結婚式かな、記念写真を撮っている人たちも。(ぼかし入れとかないと)
いくらか写真を撮って、四条通へ下ります。
巽橋 を振り返ると、うーん、やっぱり絵になるなあ。
軒下のカーブを描いた竹の柵のようなものは、「 犬矢来(いぬやらい)」というそうです。
祇園の南側 花見小路
四条通の南側の 花見小路 は、由緒ある茶屋や料理屋が立ち並ぶエリア。
こちらは更に観光客でいっぱい。
この濃いオレンジ色の建物が「 一力亭 」です。祇園の中で最も格式の高い由緒あるお茶屋さんとされているのだとか。仮名手本忠臣蔵で 大石内蔵助 が豪遊したというお茶屋さんですね。
この花見小路の突き当たりに 建仁寺 があります。
ここ建仁寺には、元総理大臣・細川護熙さん が襖絵「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」を奉納されています。
それを見たかったのですが、お寺行事の関係で拝観休止日でした。残念!
お昼を食べよう
四条大橋の西詰めにあるうどん屋さん「 おめん 」へ。(No.⑥)
まずは ビール!
これが「 名物おめん 」
胡麻、きんぴらゴボウ、ネギや生姜、季節の野菜など、たくさんの薬味と一緒に食べるつけ麺スタイルです。
帰る前に京都駅南側の 東寺 へ
秋期特別公開ということで、宝物館の「弘法大師信仰の成立」と国宝「観智院」の公開が行われています。
2度目の拝観でしたが、講堂の立体曼荼羅は圧巻です!
曼荼羅とは密教の教えを絵などで表現したものですが、東寺の講堂ではそれを仏像で立体的に表現しています。そして、21尊像のうち16体が国宝!
写真撮影はできませんので、パンフレットから引用します。
前回の東寺の記事はこちら ↓
あまり歩いていないように思ったのに17,878歩でした。
お土産に生八つ橋を買うのもいつもどおり。
次は紅葉を見に来よう。どこに見に行くか考えるのも楽しみです。