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京都 松原通を歩く

現在の「 松原通 」が、平安京造営時の「 五条大路 」である。

道幅24mの大通りで、清水寺への参拝道でもあったことから、たいへん賑わっていたのだそうだ。

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この「 松原橋 」が昔の「 五條橋 」だから、あの牛若丸と弁慶の対決もこの橋の上ということになる。

現在の五条通りと五条大橋は、豊臣秀吉方広寺参拝のために造ったものだからだ。

でも、現在の五条大橋西詰めの中央分離帯に、牛若丸と弁慶の像がある。

まあ、唱歌の「京の五条の橋の上」の対決が後世の創作だそうだから、目くじら立てる程のことではない。

  

昔の京都の人々は、鴨川を渡った東側をあの世と考えていたそうな。

「 鳥辺野 」という葬送の地があることからも分かる。

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松原橋を渡ってしばらく東に進むと、「西福寺」というお寺の角っこ、ちょうどT字路になったところに、この石柱があった。

人は死ぬと、地獄道や餓鬼道など六道の冥界を輪廻転生するらしい。

その六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境の辻が、この辺りらしい。

冥界への入口ということになるなあ。

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石柱「 六道の辻 」の向かいに、「 幽霊子育飴 」で有名な飴屋さんが今でもある。

 

そして南手には「 六波羅蜜寺 」。

あの有名な「空也上人」により平安時代中頃に開創されたというお寺だ。

ここの宝物館には、その「 空也上人立像 」が安置されている。

念仏を称える口から六体の阿弥陀仏が現れたという、誰もが教科書で見た彫刻だ。

それに「 平清盛座像 」、これも教科書で見た彫刻。

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この辺りは平 清盛を初めとする平家一門が住んでいた地域なので、「 平清盛公の塚 」というのもあった。

 

続いて、「 小野 篁 」が冥府通いのために使っていたという井戸が残されている「 六道珍皇寺 」へ。

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小野 篁には、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという伝説がある。

最近、小野篁が冥土から帰るのに使ったという「黄泉がえりの井戸」も発見された。

両方、覗いてきた。

 

次に八坂の塔法観寺)近くに「 木曽義仲首塚 」があるというので、探しに行ったが見つからなかった。残念。

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最後に「 建仁寺 」へ。

京都最古の禅寺。開山は栄西禅師、開基は源頼家

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あまりにも有名な国宝、俵屋宗達の「 風神雷神図屏風 」。

高精細デジタル複製が飾られているので、写真撮影OK。

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方丈の襖絵は「 海北友松 」の「 雲龍 」。

これもキャノンが作った高精細デジタル複製で、本物は「風神雷神図屏風」とともに京都国立博物館にあるとのこと。

海北友松の父「 海北綱親 」は、浅井三将に数えられる知勇兼備の武将だ。 

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この法堂の「双龍図」は、創建800年を記念して平成の時代に描かれたもの。

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庭に「 安国寺恵瓊 」のお墓があった。

戦乱で荒廃した建仁寺の復興に尽力したんだそうだ。

京都の東福寺で修行していたとは知らなかった。

 

この京都一人歩きは、コロナ禍ではない2018年11月11日のもの。

おだやかな秋の一日に、このように京都をのんびり歩くなんて、何時になったら戻ってくるのだろう。